自然災害を「人類共通の敵」とするHRTF④保護する責任

Tadashi Inuzuka
Mar 24, 2021

2001年に起草され、2005年に国連総会で承認された「保護する責任」原則が多くの国に支持されることになれば、内政不干渉原則を越えて国際社会が人々を守る時代が来るかもしれない。しかし機能する国連なしでは、こうした理念も絵に描いた餅だ。時間のかかる安保理改革に先駆けて、五大国拒否権の及ばない地域的枠組みの中で、自然災害に即応する多国籍部隊を創設すべきではないだろうか。

「保護する責任」とは何か

「保護する責任」とは、国家が自国民を重大な人権侵害から護ることができない/護る意思がない時、抑圧されている人口を護る責任は国際社会が負うとする新しい概念だ。2001年12月18日に「干渉と国家主権に関する国際委員会」(International Commission on Intervention and State Sovereignty: ICISS)の報告書として国連に提出された。ICISSはカナダのアクスワージー外相(当時)、ギャレス・エバンス元オーストラリア外相、モハメド・サヌーン国連事務総長特別顧問を初めとする各国の学者、政治家、外交官が委員となり、カナダ政府、スイス政府、イギリス政府のほか、カーネギー財団などから財政支援を受けた。

ICISS委員会設置に至る背景として、特に1994年のルワンダで100日間で約80万人が原始的な武器で殺戮されたにもかかわらず、駐留していた国連平和維持部隊をはじめとする国際社会がこれを止めることができなかった事態があった。この惨劇で数百万人単位の難民/国内避難民が発生し、周辺諸国を含めた地域に混乱が広がり、被害者と加害者の和解努力は気の遠くなるレベルだ。100日間で80万人が虐殺されたということは、長崎の原爆が10日に1回の割合で10回投下されたに等しい。それでも国際社会は不干渉原則を守ってジェノサイドを看過するのか、あるいはこうした惨劇が主権国家内の出来事であっても不干渉原則の範囲外にある国際的な義務とすべきなのか。そして、もし干渉するならばどんな枠組みが必要なのか。こうした疑問に対する国際社会の答えが「保護する責任」レポートだった。

伝統的国際法ではウエストファリア条約以来350年以上に渡って内政不干渉が国際関係の大原則になっている。国連憲章でも第2条7において、国連は本質的に国家の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を持たないとしている。一方で1970年代には不干渉原則の適応範囲を限定する議論が現れ、欧州安全保障・協力会議(CSCE)は、不干渉原則と人権の尊重を同じく国際法の原則として扱うという議論を先導した。フランスの「国境なき医師団」は、犠牲者へのアクセス権を主張した。1996年には米ブルッキングス研究所が「責任としての主権」(Sovereignty as Responsibility)をまとめ、主権は、国内の市民の安全と福祉に最低限の基準を保証するという考え方を示した。そうした流れの中で、コフィ・アナン国連事務総長が、「人類の良心に衝撃を与えるような人権侵害」が目の前で行われている時、国連を初めとする国際社会はどのような対応をすべきなのか、という問題提起を行った。これを受けてカナダ政府が前述のICISSを設置し、今までの議論を一歩進めた。すなわち、国家主権は自国民を保護する責任を伴っており、大規模な人権侵害から自国民を護れない/護る意思のない国家は内政不干渉を主張できない、としたのだ。

この「保護する責任」の主要概念は、2005年国連首脳会合成果文書において正式に確認され、2007年には初代「保護する責任」国連事務総長特別顧問(Special Adviser on the Responsibility to Protect)としてエドワード・ラックが任命された。こうした一連の展開については、国立国会図書館レファレンスでレポートされている。当時、緒方貞子国連難民高等弁務官らが提唱した「人間の安全保障」が大きく注目されており、2007年には我が国がICC国際刑事裁判所の締約国になっている。基本的人権を擁護する国際社会のランドマークとも言えるこの条約を、アメリカが大反対する中で日本が批准したことは、人間の安全保障と国連中心主義を掲げる日本外交の意思を内外に鮮明にした快挙だ。しかし、残念ながら批准に当たって必要と思われる国内法の整備はほとんどされなかった。日本は、自衛隊という実力組織を国外に派遣している主権国家の立場から、ICC国際刑事裁判所条約批准と整合する国内法の整備、さらには「保護する責任」の精査が必要だったが、これを正面から取り上げる国会議論は今日に至るまで行われていない。

「保護する責任」の限界:安保理の拒否権

「保護する責任」は、紛争の原因に取り組む「予防する責任」、強制措置(最終的には軍事干渉) を含む「対応する責任」、復興、和解などへの支援を提供する「再建する責任」の 3 つの要素を包含するもので、その中核であり最も重要な側面は 「予防する責任」だ。

この前提を踏まえた上で、「対応する責任」としての軍事行動が正当化されるには、次の 6 つを満たす必要があるとしている。 ①正当な理由: 大規模な人命の喪失、又は「民族浄化」が現在存在し、又は差し迫っ ている。 ②正当な意図: レジームチェンジが目的ではなく、体制が人々を害する能力を無力化 することを目的とする。③最終手段: 交渉、停戦監視、仲介による妥協など、あらゆる外交的手段、非軍事的手段を尽くしても効果が認められない。 ④必要最低限の手段:規模、期間、攻撃能力等が必要最小限である。 ⑤合理的な期待:干渉前より事態が悪くなり そうな場合には干渉しない。⑥正当な権限:軍事干渉の可否を判断するのは、国連憲章第 7 章、第51条、第 8 章にあり、つまりは国連安保理の判断なのだが、「保護する責任」に関する安保理の判断は慣習法となるには未成熟であり、また、安保理理事国の代表性も不十分だが、安保理以外に軍事干渉の問題を扱える機関が存在しないため、安保理をよりよく機能させる必要がある、と論じている。その良い例がリビアだ。

2011年3月17日、安保理がリビア情勢に関する決議1973を採択し、国連史上初めて「保護する責任」原則に基づいて武力行使が容認された。残念ながら、この決議1973以降、「保護する責任」原則は国際社会の主要な支持を失ってしまった。その理由は2つ。まずリビアにおいて「保護する責任」決議の下、武力行使が容認されたが、人権を護ることよりもカダフィ政権を倒すレジーム・チェンジの戦争になってしまったことだ。「保護する責任」安保理決議に基づく武力行使が、行きつくところ敵対政権の打倒に直結してしまった。人権を擁護する上で最後の手段として認められた武力行使が、西側列強諸国に敵対する政権の打倒に使われてしまった感がある。もう一つは、「対応する責任」の執行は国連安全保障理事会の決定に依らねばならず、その決定は安保理5大国の一国でも反対すれば実現しないという現実だ。つまり、理念に忠実な運用はまず不可能であることだ。理念はどうあれ、現在の枠組みでは、拒否権を持つ5大国の意に反して、あるいは5大国に対しては、武力行使は絶対に行われない。「保護する責任」原則はウエストファリア条約以来250年続く主権国家体制、国連が依って立つ内政不干渉原則に対する挑戦であり、時代を画する概念といっても決して大袈裟ではない。しかしながら、執行機関たる国連安保理が5大国の国益で動いている以上、どんなに必要であっても「対応する責任」がその原則に忠実な形で機能するとは思えない。

「保護するだけ」の武力行使が存在するのか

さらに本質的な疑問は、「保護するだけ」の武力行使が存在するのか、という疑問だ。 現場から10,000キロも離れた会議室で「保護するだけ」の武力行使を決めても、当事者にしてみれば、目の前の兵隊アリではなくそれを送り出してくる女王アリの巣にミサイルを撃ち込むのではないか。それをやらせない、武装も最小限度というのは、スレプレニッツァやルワンダに駐留していたピースキーパーと同じように、虐殺を止めることが不可能になるのではないか。

同じように、専守防衛の戦力と通常戦力の違いを明らかにすることも困難だ。現代の戦争は全て防衛戦争だ。攻撃される前に敵基地を叩くことが防衛かどうかは解釈次第だ。急迫不正の侵害があり、これを防ぐのに他の手段がなく、必要最小限の武力行使を行うような敵地攻撃もありえる、というのが現政権の方向性だ。しかし問題は防衛能力の整備は周辺諸国の防衛能力の整備をトリガーせざるを得ないことだ。

このスパイラルから抜け出すには緊張緩和、信頼醸成を行う以外ない。民軍の多国籍部隊が日常的に共同訓練を行い、同じ釜の飯を食い、共通の敵である自然災害に即応する体制を作る。被災後72時間以内に早期展開能力、自己完結能力を持つ多国籍軍事組織が現地で多くの命を救い、短期撤収した後、非軍事組織を中心とした長期的な復興支援につなげる。こうした活動を現実のものとする準備、多国間の話し合い自体が隣国との緊張緩和、信頼醸成への第一歩ではないだろうか。

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Tadashi Inuzuka

WFM-IGP Executive Committee member, Former Senator of Japan